人の往来のために陰で仕えた地、横根

岩村田の商店街から中軽井沢、車で25分。江戸時代に栄えた中山道沿い
です。私たちの会堂が建つ横根は、岩村田から車で5分の近さにあります。
しかしながら江戸時代の横根は、岩村田よりも軽井沢とのつながりのほ
うが断然深い土地でした。日本橋を中心とした五街道が栄え、3里(12キ
ロ弱)ごとに「 宿(じゅく)」(宿場町)」ができます。軽井沢、沓掛(くつかけ)、信濃追分(しなのおいわけ)の三宿は、中山道と北国街道の中継地点となる、街道最大の「宿」でした。公用だけでなく私用の旅人(善光寺参拝など)のために、宿泊施設や茶屋が多く建ち、非常ににぎわったようです。
「宿」は、馬の調達係も兼ねました。馬を継立し、次の「宿」まで旅人
と荷物を送りとどけるピストン輸送のスタイルであり、常時50頭から100
頭の馬をスタンバイさせなければなりません。馬は「宿」内で調達します。
さらに、大きな行列が通るときには、通常の馬数では足りず、周辺地域から
調達しました。旅人が公人の場合は対価の謝礼がないので、馬調達地域
(助郷、すけごう))にとっては重い重い負担となりました。公人が農繁期に移動することも、助郷の首を絞めます。
横根は、マンモス「宿」である軽井沢宿の助郷でした。馬を調達したわ
けではなく、その対価の不足を補うための田園地だったようです。宿場町運
営においては、すぐ近くの岩村田宿よりは、軽井沢とのつながりが深く、軽
井沢のために負担を負う地域だったのです。この横根の負担によって、2街
道の人々の移動が可能になり、安定しました。こうやってひっそりと黙々と
負担を負い、人々の往来の安全を保証してきた歴史が、横根にはあります。
今のを横根は、誰か別の地域のために存在しているわけではなく、私た
ちは何のために負担を負うか選ぶ素晴らしい自由を持っています。とりわ
け、教会の中でさえも交わりが希薄になってきている現代です。未信者の方
がたに届こうとしているのに、教会内や教会同士でさえつながりが薄かった
ら、どうやって求道者を招けるでしょうか。人同士の交流を促し応援する、
そのような場所に横根の教会がなることを願います。(2026年2月22日週報)

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