信濃の馬と、旅人のもてなしについてです。
まず、馬について。佐久周辺の幹線道路で最も古いのは「東山道(とうさんどう)」です。7世紀、天智天皇の時代、情報伝達の効率化のために整備されました。畿内(近畿地方)から信濃(長野)を通って東国(関東)を抜け、津軽(青森)にまで続きます。路線には馬を提供したり世話したりする場所ができました。701年大宝律令が制定され、役人の往来をしやすくするために「駅舎」ができます。伝達用の馬を用意し、往来する馬や人が安全に宿泊できる場所です。近くには小諸市に「清水駅」の遺構があり、馬の水飲み場の跡が残されています。
古代の旅は苦労が多かったようです。旅人は「汚れている」とされ、忌み嫌われる存在だったからです。泊めたり、手助けをしたり、食べ物をあげる人はおらず、売ってもくれませんでした。ですから、持って来た糒(ほしいい。乾かしたご飯)が尽きると、旅人は餓死に追い込まれました。旅人には、労役で移動する人や、租庸調(税)の運搬に関わる人も含まれました。
この事態を憂慮し、大化の改新(645年)以降、「旅人は汚れているという考えは迷信であって、沿線の住民は彼らの面倒を見なければならない」という勅令が出ましたが、改善はしませんでした。ですから、大宝律令(701年)後の「駅舎」整備は、まさにあらゆる旅人の命綱だったのです。江戸時代(1600年~)に中山道が整備されたころには、旅人のための宿場町(岩村田の商店街もそうですね)ができていき、街道沿いは日本の中でも先進的な「もてなしエリア」に変化していきました。
そのようなわけで、佐久周辺は、古くから旅人と関わり続けてきた地域です。古代の「旅人問題」を乗り越えて、近世のもてなしの場、宿場町となりました。会堂建設中の横根も、都に献上する馬の育成に関わっていた場所です。 聖書では、旅人のもてなしが非常に大事なこととされています。アブラハムも、マムレの樫の木の下で、それとは知らずに主の御使いをもてなしました。新しい土地も、主のために旅人をもてなす場所としたいですね。(2026年2月1日週報)
