戦国時代、佐久地域も大名の支配拡大合戦に巻き込まれました。当時佐久は、小さな領主たちが割拠している状態で、南は伴野氏(前山城。前山)、北は大井氏(大井城。岩村田)が支配していました。1527年、伴野貞慶が、大井氏との紛争で、武田信虎(信玄の父)に援軍を求めたことから、武田勢が佐久に入ってきます。その後、信虎が諏訪頼重との同盟を強化すると、本格的に佐久に攻め入り、小城主たちはまったく歯が立たず、次々に陥落していきました。武田軍は、伴野氏、大井氏を含め支配下に置いた領主・領民を兵士として、佐久全域の支配に乗り出します。
最後まで抵抗したのは、志賀城(東会館のあたり)でした。城主笠原清繁は、上野の高田憲頼の助けを受け、志賀城を捨てて東側の笠原城に立てこもって抵抗します。しかし武田軍の水攻め、火攻めに遭い、およそ3週間後には笠原父子と高田父子が討ち死にし、残った一族も離散となりました。
志賀城攻めには、地元の大井氏などが先兵として使われ、佐久人同士が戦わされたことになります。そのようなわけで、佐久には武田を嫌う人が多く、「武田節(1961年の三橋美智也のヒット曲)」を歌うと嫌がるそうです。
しかし、勢力を拡大した武田の支配期間は長くはなく、戦国時代の終わりに織田信長が登場して、全国の支配地図を20年余りで塗り替えてしまいました。さらにその信長も志半ばで命を落とします。「つわものどもが夢のあと」です。
聖書は、「私の日数(一生)を手幅ほどにされた」と言っています(詩篇39:5)。現代の世界の情勢を見ていても分かりますが、あらゆることが変化していきます。私たちのこの世界に対する影響力はどれほど小さいかを知りつつ、でも、主が実を結ばせてくださるなら大きな影響力を持ち、永遠の価値を持つことも知っています。今日、みことばの種をまくことの祝福が、私たちの心に大きな喜びをもたらしますように。(2026年4月26日週報)
