神の存在の証明はできない
古代ギリシア・ローマ文明の中で成長した西欧の教会世界は、古くから、数々の神の存在証明を提出してきました。その代表的なのが、宇宙論的、存在論的、目的論的証明の三つです。それは、簡単にいえば以下のとおりです。
宇宙論的証明:「すべての存在や現象には原因がある。その原因の原因を突き詰めていけば、必ず根源的な唯一の原因である神に行き着く」。
存在論的証明:「我々は絶対的な完全性(完全な正、義、聖、善、無限、永遠など)の観念を持っている。『絶対的に完全な存在である神』が存在しなければ、不完全な人間が完全性の観念を持つことはできない」。
目的論的証明:「宇宙はマクロからミクロに至るまで美しい秩序と法則に貫かれている。宇宙を統一的に支配するデザイナーである神なしには説明できない」
いずれも、人間による、人間視点の証明です。人間の理屈としては、もっともな説明です。しかし、宇宙の起源や、完全性の観念や、道徳の根拠の説明のためには、「神の存在」が「論理的」に要請されると言っているだけのことです。つまり、頭の中だけの神の存在証明です。そんな神が実際に存在することを証明できたわけではありません。宇宙の起源は神が存在しなければ論理的に説明できないからといって、それで神が実際に存在することになるとはかぎらないのです。「神は存在しない」という立場の人たちは、神が存在しなくても、科学で宇宙の起源は説明できると主張しています。理屈が正しければ、即、現実もそうである、とはなりません。
そもそも、どのようにしたら神の存在を証明したことになるのでしょうか。そして、人間によって存在を証明してもらって初めて存在が承認される神って、いったい何なのでしょうか。そんな神は、人間の頭の中で作り上げた概念の神にすぎないのではありませんか。
では、特殊な神体験はどうでしょう。それも同じです。それがどのような神体験であっても、体験というのはあくまで個人の(せいぜい一グループの)ものであって、普遍性はありません。しかも、そのような体験をすれば神を体験したことになると、どうして言えるのか。いったい誰がそんなことを決めたのか、と問われることになります。たとえ神を見たとしても、見えた神がどうして真の神と言えるのか、幻覚を見たのではないのか、と反論されます。
世の中にはさまざまな宗教があり、さまざまな神を唱え、瞑想や祈祷や奇跡や神秘的、霊的体験などで、自分たちの神の存在を確信したと主張します。しかし、そうした方法や体験で神は知れるものなのか、その神が真の神といえるのか、何の確証もありません。
そもそも、神の存在を知る前に、神の存在を知る方法を知っているというのはおかしな話です。
「私は滝に三年あたって神を見た」という経済人がいましたが、神は滝にあたって修業すれば神に出会えると、どうして予めわかったのでしょうか。それは本人の思い込みや根拠のない通念であって、せいぜい自分の頭の中にあるちっぽけな神、神とはこうあるはずだと自分で想像した神、を証明したに過ぎません。
次回は、『神の非存在も証明できない』です。

