神の存在証明8

神による神の存在証明

さて、神ご自身による神の存在証明に入っていきます。

聖書は、神の存在を人間の理屈に合わせて証明しようとはしません。先述したように、聖書はただ、「神のことば」を宣告するだけです。宇宙の創造者である神を、人間の理屈の世界に引きずり込むことはしません。

聖書は、神の側から、神の論理で語っていきます。神の論理は、聖書の民イスラエル(へブル人)にちなみ、ヘブライズムとも呼ばれたりします。ヘブライズムにおいては、「神が万物の基準」です。

一方、人間を基準にして、人間の理屈で探究し、人間の知性で理解し、合理的に説明しようとする思考傾向は、ヘレニズム(ギリシア的思考)と呼ばれます。

この両者の違いの詳細は、別の機会に譲りますが、要するに、聖書はヘレニズムには立ってはいないのです。つまり、人間の理屈や体験による神の存在・非存在証明というのは、ヘレニズムの論理であって、聖書の方法ではありません。新約聖書は、ヘレニズムが広がった地中海世界にあって、ギリシア語で書かれましたが、その内容はやはりヘブライズムです。(といっても、もちろん、人間の知性と論理を用いていないという意味ではありません。私も知性で聖書を語ります。ただ、神の論理を優先するのです)。

①私個人に対する「神による神の存在証明」

では、なぜ私は、神を信じているのかをお話しします。

私は18歳のとき、私という人間の側から、聖書の神を信じるという一大決心をしました。虚無の人生を克服するために、すべての存在の根源である唯一なる神、全知全能の神が必要だったのです。しかし、今は、神の側からの選びによって、神を信じています。

ある時までは、自分の意志と理屈と体験を土台にして信じていました。しかし、30代中ごろから、神の論理(あり方、なさり方)に合わせて信じるようになっていきました。

以前は下から神に向かってジャンプ(leap)を繰り返していましたが、今は、上から手が伸びてきて、神に受け止められたという感覚です。

いつからかわかりませんが、きっと幼いころから、私は神に出会っていたのだろうと思います。

神とは、出会うものです。出会わなければ、わかりません。出会うとは、いわば「神自身による神の存在証明」です。神の側から近づいてきて、出会ってくださるのです。

なぜ出会えるのか。私にはわかりません。結果的には「選び」としか言いようがないのです。どうやって出会うか。決まった一つの法則というのはありません。私の場合、とにかく信じることを始めることによってしか、神に出会うことはありませんでした。長い時間がかかりました。しかし、人それぞれで、信じようとすることもなく、一瞬で、あるいは短期間でそのような出会いをする人たちもいます。まさにさまざまです。

こんな「神との出会い」なんて、人間知性にとっては愚かことです。それはよく理解しています。私は今、私の知性で、聖書の神の存在を証明できたから信じているわけではありません。最初に語ったように、人間の側から、神の存在は証明できません。

ただ、神の側から、私個人に対し、「神の存在証明」をしてくださったのです。私の側から、神の存在証明ができたので、信じているのではないのです。

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