■神の存在も非存在も、「信じる」ことで成り立つ
「神は存在しない」も信仰
さて、次は、「神自身による神の存在証明」なのですが、その前に「信じる」ということについてお話ししておきたいと思います。
神の存在証明、あるいは非存在の証明が不可能であるとすれば、あとは、「信じるか、信じないか」の問題になるからです。
私は、聖書の神を信じています。「今どき、神を信じているなんて愚かだ」という人もおられますが、その人も「神は存在しない」という証明不可能なことを「信じている」のであって、同様に愚かなのです。聖書の側からすれば、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない」(詩篇14:1、53:1)となります。神を否定する人には不愉快な言い草だと思います。しかし、双方とも、自分の立場からすれば、相手は愚かなのです。
私は、日本の社会にあって、聖書の神(復活のキリスト)を信じることは愚かであることを自覚しています。しかし、神を信じない人たちのほとんどは、信じないことを愚かだとは思っていないようです。なぜか。日本の社会では、知性的な人、科学的な人ほど神を信じないと考えられているからです。知性的、科学的というのは実に響きがいいのです。
これから科学主義の考え方はますます強まっていくでしょう。それとともに、「神は存在しない」ことが「ふつう」になっていくでしょう。現在も、公の場では神を語らないことは「エチケット」であり、公立学校では神を持ち出さないことは「常識」です。道徳は、神の権威を抜きにして、人間の理屈と体験だけで説かれます。国民は、「神は存在しない」ことを暗黙のうちに、互いに了解しあって暮らしているかのようです。
そして将来は、無神論の圧力はさらに強まり、「神は存在しない」ことが客観的事実として教えられるようになるかもしれません。実際、日本では自称無神論者の割合は増加の一途です(2018年は30%)。
しかし、無神論もやはり「信仰」です。無神論が圧倒的多数派になったとしても、信仰は信仰です。途中で「事実」に変わることはありません。「神は存在する」も「神は存在しない」も、証明不可能なのですから、「信じる」ことによって成り立っています。両者とも信仰であること、それこそが客観的事実なのです。

