「信じる」ことに疑いが生じるのは当然
「信じる」ことに、疑いは付きものです。すべての疑いが晴れ、すべてのことを理解し、すべて知り尽くして、その結果、信じるのではありません。そのような日は永遠に来ません。そもそも知り尽くしたら、信じる必要はなくなります。「信じる」は「知る」に先立つのです。なので、心に疑いを懐きつつ信じることになります。「信じる」とは、その疑いとの格闘です。疑いと戦いながら信じ続けることによって、「知る」は育っていきます。
ですから、「疑い」を恐れなくてもいいのです。
そもそも疑いは、信じているからこそ生じるのです。信じない人には疑いすら生じません。
そして、疑いが生じるということは、洗脳されていない証拠でもあります。何も考えず、何もかも無条件に信じていくのはむしろ危険です。信じるとは、自分の理性を欺いたり眠らせたりすることではありません。
このことは、神を信じる人だけでなく、神はいないと信じている人にも言えることです。
考えてみてください。日本の学校教育、産業社会、政治社会は、ほぼ、「神は存在しない」ことを前提にして、活動あるいは機能しています。国会の答弁や会社の取引や学校の授業で、神を持ち出して議論、対話することはありません。持ち出せば混乱します。公立学校ではなおさら、「神の存在」について教えてはならないのです。特に理科の授業では、神は存在しないことを前提にして教えています。
全般的に、日本の社会は無神論への圧力が強いといえます。宗教は非日常に追いやられ、個人の密かな営みになっています。そんな社会環境で育てば、神の存在を信じないように洗脳されていくのは、きわめて自然ではありませんか。
確かに、国民の4人に3人が神社初詣に出かけます。しかし、それは伝統行事であって、みなが神を信じてのことではありません。実際、2018年のギャラップ調査によれば、神を信じない日本人の割合は29%で、世界68か国中、中国に次いで2番目だそうです。熱心な仏教、神道系の宗教を信仰する家で育った私でさえ、中学1年のころには、一旦、神の存在を信じないようになっていました。周囲の級友も、何の疑問もなく(自称)無神論者になっていきました。
神についての知識がなく、何の疑いもなく無神論を信じている人は、おそらく洗脳されていると思われます。神のことはあまり聞きたがりません。しかし、真の無神論者というのは、神の存在と正面から向かい合って格闘するという経験をしています。この国では、そんな筋金入りの無神論者は多くはないのです。
逆に、こうした無神論の空気が漂う国で、キリスト教のような唯一神を信じることは並大抵のことではありません。洗礼を受けて後も、内外から襲ってくる「疑い」との戦いは続きます。その戦いに勝利して、筋金入りのキリスト者になっていくのです。日本の社会では、なんとなく無神論(あるいは無信仰)で生きていく方がはるかに楽だと思われます。

