神による神の存在証明13
ドイツの哲学者ルートヴィヒ・A・フォイエルバッハの墓碑銘に、「人は神を自分のかたちに作った」と彫られているそうです。それは聖書の「神は人を自分のかたちに創造された」(創世記1章27節)のもじりです。実際に、そう述べたかはわかりませんが、唯物論者であった彼の考えを象徴する言葉ではあります。
ともかくも、その墓碑銘と聖書の言明は、「人間を基準とする視点」と「神を基準とする視点」の違いを端的に表現しています。前者は、人間の性質が神々に投影されます。後者は、創造主なる神の本性が人間に投影されることになります。
フォイエルバッハの墓碑銘は聖書の神を揶揄しているわけですが、偶像神に関してなら、まさに言い当てています。人は自分の必要に応えてくれる神々を数々捏造しました。人それぞれが自分の好みに応じて自分の神を作るのですから、当然多くの神々が登場してくることになります。それは、自然現象への畏敬や、暗闇・病気・災い・死などへの恐れから人の心に生まれた神、悪者を罰してくれる神、人間存在の虚無から救い出してくれる神、幸運や富や安全や成功を保障してくれる神、宇宙のデザイナー、天地宇宙の法則としての神、そして宗教の様々な情報を取り入れて自己流に描き出した神などです。その他にも様々な神々がいることでしょう。いずれにせよ、それらはすべて「人間のかたち(性質)」に似せられて作られた神々です。その意味で、確かに墓碑銘は正しいと言えます。
しかし、神の側からは、「神が人を自分のかたちに創造された」のです。なので、人間には神の本性が表れています。どのように、私たちに神の本性が宿っているか。
聖書の神の本性は第一に「聖」です。それゆえ、人間も本来、汚れを嫌い、聖さを求めます。目に見えるところ、目には見えないところ、その両方において聖潔でありたいと願います。人は、心に汚れがあれば疚しさを感じるようになっています。
次に、神は永遠です。それゆえ人間の心には永遠を求める思いが備わっています。心に虚しさを感じるのは、永遠への思いが満たされていないからです。
また、神は愛です。それゆえ人間も愛を求めます。愛されることだけでなく、いやそれ以上に愛することを欲します。人は愛し、愛されることで心が充足するように造られているのです。愛がなければ、無意味、無益、無価値と感じます。
また、神は義です。それゆえ人間も義を求めます。正しくありたいという願いが本能として備わっています。つまり「良心」が心に刷り込まれているのです。不正を指摘されたら反射的に言い訳や弁解をしたくなるのは、その本能、良心があるしるしです。
そして、神は創造主です。人間も創造することを喜びとします。
神は全知全能です。それゆえ人間も知識と知恵と力を求め、それらをより豊かに持つ者を尊敬します。
人間は不完全で欠陥の多い生き物ですが、それでもこのように神の本性の残滓があるのです。これが、神の側からの「神の存在証明」です。
しかし、人間にこれらの性質があるから、人間の側からも「神の存在証明」ができるといっているのではありません。ただ神の側から、このようにしてご自身の存在を示しておられるということです。私たち人間はそれを追認していくのです。

