「私を苦しめる人々の憎悪の理由を知っていますか。彼らは私に愛を求めているのです。憎悪とは、愛の哀願の裏返しなのです。」そんな言葉を誰かの本で見つけました。
「そうか、そうだったのか。あの時、あの人は私の愛を求めていたのだ」と、その人のことが懐かしく思い出されました。人からきつい言葉を受けたら、「ああ、今、この人は私の愛を必要としているのだ」と思えばいいのかもしれません。
考えてみれば、夫婦喧嘩や親子喧嘩、友人との喧嘩など親しい人との間では、間違いなくそうです。荒い言葉や冷ややかな視線、無視、無言、反抗、皮肉、空中を飛ぶ皿・・・それらはすべて「私を愛してくれ」というサインなのです。ぶつけられた怒りの言葉やしぐさを丹念に分析していけば、それが分かります。つまり、怒りや憎しみをなだめる唯一の方法は、愛を返すことなのですね。
キリストも自分を十字架につけた人々の憎悪の理由を知っておられたので、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」(ルカ23:4)という言葉を発せられたのかもしれません。事実、キリストと共に十字架につけられていた強盗の一人がこの言葉を聞いて悔い改めました。彼も最初はキリストを罵っていましたが、意識せずしてキリストの愛を求めていたのです。憎悪をぶつけた相手から愛の言葉を聞かされて、初めてそのことに気がついたのでしょう。
主よ。憎悪をぶつけられた時、「ああ、この人は私の愛を必要としているのだ」と、とっさに思える心をください。
SNSが普及して、公の場で、誰かに対して批判、非難、罵倒をぶつける人たちが増えました。正義感で長々と糾弾する人もいます。何かに傷ついているのだと思います。愛に満ち足りていたら出てこないような表現が使われています。その激しさは、認められたい、愛されたいという魂の呻きなのでしょう。私自身、キリストの愛に安らいでいるかと、自省させられます。

