月曜、朝から首筋が凝って痛い。やがて痛みは後頭部に広がる。20年来、頭痛に悩まされたことはなかったのに、最近は一月に一、二度、頭痛に苦しむようになった。
午後、新宿の東京プロテスタント教会に向かう。頭痛は消えない。電車の中で、「しかめっ面になっている」と気づき、「いつも喜んでいなさい」(Iテサロニケ5:16)の実践に入る。目を開けたまま、「主よ、教会に着くまでに頭痛を癒してください」と祈る。しかし、教会の玄関に立ってもまだ治らない。それどころか、ひどくなった感じだ。スタッフにいつものように笑顔で迎えられる。こちらも、いつものように笑顔で挨拶する。相手だって、どこかに痛みを抱えながら、主にあって喜んでいるかもしれない。
講壇に立って夢中でメッセージを語っていれば、終わる頃には痛みは消えている。たいていそうだった。今日の頭痛もそうなろう。そう信じて精一杯の笑顔で講壇に立つ。なのに、今日ばっかりはそうならない。語る宣教メッセージもまどろっこしいままで終わった。それでも、決心者を募ればいつもの倍ほど手が上がるから、主のなさることは不思議だ。そして、何事もなかったかのように、笑顔で教会を出る。
そのあと、イスラエル在住の榊原氏と会うために水道橋に向う。頭痛とはいえ、離日を控えた彼との約束をキャンセルするわけにはいかない。新宿から黄色い電車に乗り、幸い代々木で席を確保することができた。
と思ったのも束の間、すぐそばに敬意を表するに足る老婦人が立った。その瞬間、「私は頭が痛いのだ」と、痛い頭の中で言い訳をする。でも、次の瞬間、心は「席を譲ったら主が喜ばれる」と説得してくる。私の隣は若い女性だ。「ねえ君、席を譲る栄誉を君に譲るよ。あ、こら、目をつむるな。年上の私が立ったら、若いあなたは公衆の面前で恥をかくことになるんだぞ」と、痛い頭がつぶやく。なのに、私が語りかけたのは若い方の女性ではなく、老婦人の方だった。「お座りになりませんか」。
その婦人はことのほか喜ばれた。座りながら、「本当に助かります」を二度、降りるときには「ありがとうございました」を二度繰り返してくれた。その間だけは、頭痛を忘れていた。それが主からの報酬であった。
駅を出れば、また頭痛は戻ってきて、帰宅するまで続いた。―――そんな日もあるのだ。「それでも主よ、いつも喜んでいます。すべてのことについて感謝します」。(2003年12月14日)

