いつまでも見逃されることはない

先日、府中街道で信号待ちしていたとき、自転車の若者が渡り出したので、青に変ったと思い私も横断歩道に出てしまいました。まだ赤だと気づいたのは、横断歩道のど真ん中。自転車は渡り終えて、私だけが取り残される格好になってしまいました。前方には「この人、頭おかしいじゃないの」という視線で歩行者数人が待ち構えています。戻ろうと思ってふり返ったら、後方にも「見てはいけないものを見た」というような顔して視線を逸らす人たち。青に変るまで数秒、立ち往生しました。 

通過する運転手が、クラクションも鳴らさずに徐行してくれたので助かりました。青になると、もちろん何事もなかったかのような足取りで、横断歩道を外れて斜めに渡りきりました。ただただ「主よ、感謝します」でした。 

自転車の若者は赤信号でも車が来ないことを確かめて、自分の責任で渡りました。私は信号も車も見ず、若者につられて歩き出しました。何かの本で、「たいていの人は信号を見て横断歩道を渡るが、ニューヨーカーは信号を見ず車を見て渡る。日本人は人を見て渡る」と読んだのを思い出し、それに自分が当てはまってしまったことが悔しくなりました。 

ところで、自然法則だったら、たった一度の「うっかり」でも絶対助かりません。高いところから足踏み外せば、必ず落下します。しかし、交通規則は破っても、たいていの場合は事故に遭いません。なので多くの人が緩く守っているか、油断しているのでしょう、しかし、繰り返していれば、助からない日が来ます(運よく、死ぬまで来ないかもしれませんが)。 

では、創造主の教えであればどうでしょう。違反は違反、罪は罪であり、最終的には必ず裁かれます。確かに、今は見逃しておられるように見えるかもしれません。だからといって、今度も大丈夫だろうと、主を試みてはなりません。パウロはこう語ります。

「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」(ロマ2:4)。 

すぐに裁きがないのは、悔い改めのための猶予期間なのです。(2014年9月26日)

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