「私たちも皆、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、他の人たちと同じように生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)
1、2節で、パウロは、異邦人は罪の中に死んでいた者であると述べましたが、3節では神の選びの民であるユダヤ人も、サタンに従い、神の聖なる怒りを受けるべき者であったと告白します。つまり、すべての人が例外なく、滅ぶべき者なのです。ローマ書の1~3章と同じです。 私たちが神の怒りを受けるのは、第一に、現実に自ら罪を犯したからです。
私たちは「自分の欲の中に生き、肉と心の望むままを行」いました。自分の欲望を遂げることは、実際には、サタンの欲望を達成することです。
たとえばユダは金欲しさに、イエスを銀貨30枚で祭司長たちに売り渡しました。この時、ユダは自分の欲望を遂げたというより、祭司長たちの欲望を成し遂げたのです。その祭司長たち自身も、自分の欲望を成し遂げたというより、サタンの目的を達成したといえます。後でユダは自分の裏切り行為の重大さに気付き、銀貨をすべて返そうとします。しかし、「私たちの知ったことか。自分で始末するんだな」というのが祭司長たちの返答でした。ユダは絶望して首をくくって死んでしまいます。その祭司長たちも恐らくユダと同じ運命をたどったことでしょう。サタンの前で「こんなはずではなかった」とうろたえ、サタンから「私の知ったことか。自分で始末するんだな」という同じ言葉を頂戴したにちがいありません。自分の肉の欲望を遂げるとは、サタンの栄光に奉仕することなのです。
第二の理由は、生れながらにして罪人だからです。私たちは生れた時から罪の原理に支配されており、生れたままの性質は自己中心です。けっして性善ではありません。正しいことを教えられず、忍耐を学ばず、愛されることもなく育てば、人は自然に悪に向かいます。自然にウソをつくことを覚え、怠惰に馴染み、悪知恵を働かせるようになります。神の怒りはこうした罪の性質に向けられるのです。
しかし、そんな人間にも良心が植え付けられています。何が悪であり善であるかを判断できるようになっています。悪をなせば心にやましさが生じます。大切なことは、その良心が麻痺してしまわないうちに、良心に素直になって、主に立ち返ることです。

