「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました」(2:4-6)
昔、犯罪人に死体を背中合わせにし、生きながらにして一緒に腐らせるという処刑方法がありました。「罪過の中に死んでいた私たち」とは、まさに死体を背負って腐っていたのだと言えます。しかも、それでもいいと思っていたのですから、そのまま朽ち果てても仕方のない者でした。
しかし、神は私たちを大きな愛で愛し、キリストとともに生かし、天の所に座らせてくださいました。パウロはここで三度「キリストとともに」と繰り返しています。それはキリストが私たちのようになられたこと、そして私たちもキリストのようになったことを意味しています。この恵みの大きさをあらためて思い知らされます。
キリストは、私たち同様「罪の中に死んでいた者」のようになり、罪人として十字架にかかってくださいました。キリストが十字架上で叫ばれた「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉は、「死」の呪いを味わう絶望の表現です。その叫びから、神に見捨てられることがどんなに恐ろしいかが想像できます。本当は、私たちが神に見捨てられ、「死」の絶望を味わなければならなかったのです。しかし、キリストが私たちに代わって地獄の苦しみをなめ尽くしてくださいました。それゆえ、私たちは「死」を免除され、「死」の呪いから解放されているのです。
しかも、キリストはその「死」に打ち勝ち復活されました。私たちをも復活させ、キリストとともに天に座る者とするためです。
この世は神の目には「死んだ状態」であり、腐臭を放っています。しかし、クリスチャンはこの世にあってもこの世に属さず、キリストとともに天に属しています。キリストは「私はこの世の者ではない」と言われましたが、私たちも「この世の者ではない」のです。
何に所属しているかが、その人の人生観を形成します。「私たちは天に所属する者である」という自覚が、私たちの生活感覚を変えます。

