「あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」(エペソ2:8、9)
私たちが受ける最大の恵みは、永遠の死からの救いであり、その救いを得させる信仰です。人は信仰によって救われますが、その信仰自体も神からの恵みです。目に見えない永遠なる神を知ることができたのは、まさに神の一方的な恵みです。「なぜ私がこんな恵みにあずかるのか」というほかありません。
私たちは、自分の救いのために何もできません。2千年前に救いはキリストによって完了したので、自分の救いのために何かしたいと思っても、もう遅いのです。私たちに残されているのは、ただ信じることだけです。
私のような者が、「信じる」だけで救われるはずはないと思うなら、それはキリストの尊い犠牲を侮辱することです。恵みの無限の力を否定することにほかなりません。
人間存在の虚無を知っている者が、キリストの恵みをこよなく味わいます。自分の罪に絶望した者が、キリストの恵みを最も深く理解します。自分の無力さ、人間の無力さを一番よく知っているものが、一番キリストの恵みを味わいます。
人はへりくだることによってしか、キリストの恵みを受け取ることはできません。キリストの恵みを軽視するのは、高慢だからです。
それゆえ、パウロは「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない」(ガラテヤ6:14)と断言します。もし私たちが自分の行い――祈り、献金、親切、忍耐、善行を心の中で密かに誇るようなら、自分で自分の救いを放棄しているようなものです。
「あんなに立派な人が救われないはずがない」という言い方もよく聞きます。しかし、それは人間という生き物がいかに絶望かを知らないからです。自分の立派な行いで救われるほど、罪の軽い人間は一人もいません。キリストの恵み以外に救われる方法はないのです。

