エペソ書㉒神の作品

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをも予め備えてくださいました。」(2:10)

本来、信仰と行いは一つです。 聖書の人々にとって信じるとは行うことであり、行うことは信じているがゆえの行いでした。聞く、信じる、行うは分断のない自然な流れです。聞いて、理解し、吟味し、信じて、なすべき良いことを自覚し、決断して、行動に移すというような、段階的なプロセスを経ることはしません。そんなことは意識せず、信じていることを行動に移すのです。 

私たちは、主イエスを信じることによって、「神の作品」として新しく造られた者です。この新生した「神の作品」から、自ずと良い行いが生まれ出ます。それが、クリスチャンの自然な姿です。

キリスト教は、聖書の教えに基づく厳格な倫理基準や愛の行いとで他宗教と一線を画してきました。キリスト教が、偶像礼拝や葬式・儀式宗教やご利益宗教に堕してしまうことがないのは、信仰と行いが一致することを重視してきたからだと思います。 

私は若いころ、神道の宗教団体に属して活動し、同時に仏教にも傾倒していました。しかし、大学入学前にキリストとの出会いがあって、クリスチャンになりました。その時感じたことは、キリスト教は倫理基準が高いということでした。実は、属していた宗教団体のリーダー格の大学生からは、「大学に入ったら、(歓楽街での)遊びを教えてやる」と言われていたのです。それが彼らの伝統であり、自然な姿だったのでしょう。 

明治の初め、日本に入ってきたプロテスタントはピューリタニズムで、キリスト教宣教師やクリスチャン清潔な生活を重んじていました。その高潔さに感化されたのが西本願寺系の仏教校(現龍谷大学)の学生たちでした。彼らは風紀粛清を目的に「反省会」雑誌を刊行したのです。その雑誌は、今日の『中央公論』として受け継がれています(宗教色は消えましたが)。 

私たちは「神の作品」として新しく創造されました。この恵みを大事にしたいと思います。そうすれば、予め備えられた「良い行い」が自然に生まれでくるでしょう。私たちの知らないところで、誰かが感化されます。

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