エペソ書㉕「敵意」

「敵意とは、様々な規定からなりたっている戒めの律法なのです。このことは二つのものを御自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(2:15b~16)

ユダヤ人と異邦人を隔てた最大の壁は「戒めの律法」でした。「戒めの律法」とは、祭りや犠牲(いけにえ)や浄めの儀式の規定であり、日常生活を律する細かい行動規定です。この規定によれば、異邦人はユダヤ人とともに神殿で礼拝することは許されませんでしたし、同じ家に入り、ともに食事することもできませんでした。ユダヤ人は異邦人を汚れた者として嫌っていたのです。初代教会の指導者ペテロでさえ最初は異邦人と食事をすることを躊躇しました。このように律法が両者を敵対させるものになっていたのです。 

キリストは、その敵意を十字架によって葬り去られました。つまりユダヤ人と異邦人を隔てる「戒めの律法」を無効にし、両者がともにそろって、同じ条件で、神と和解できるようにしてくださったのです。

キリストが十字架上で息を引き取られたとき、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました(マタイ27:51)。神殿の幕の内側には至聖所があり、大祭司が年に一度そこに入って、民の罪のあがないのために祭壇に動物の血を振りかけていました。至聖所に入れるのは大祭司だけで、しかも年に一度の大贖罪日に限られていました。しかし、キリストが血を流されたことでその幕が裂け、誰もが「至聖所」に近づけるようになったのです。こうしてユダヤ人と異邦人、祭司と一般人の違いがなくなりました。 

キリストは、すべての人を神の前に平等にされました。逆に言えば、キリストを通してでなければだれも神に近づけないのです。どの民族、どの階層に属そうと、能力があろうとなかろうと、過去がどうであろうと、神の目には何の意味もありません。人を分けるのは、悔い改めた謙虚な心があるかどうかです。 

へりくだることができれば、敵対していた者たちもキリストにおいて一つとなれます。もはや異邦人でもユダヤ人でもなく、日本人でもアメリカ人でも韓国人でもなく、みなクリスチャンという新しい人に造られます。

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