「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエス自身がその礎石です。この方にあって組み合わされた建て物の全体が成長し、主にある聖なる神殿となるのであり、このキリストにあって、あなたがともに建てられ、聖霊によって神に住まいとなるのです」(2:20~22)。
イザヤ28:16にこうあります「見よ、私はシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い頭石。これを信じる者は慌てることがない」。また、キリストはご自分のことを「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった」(マタイ21:42)と語っておられます。さらにIペテロ2:4、8には「主は人に捨てられたが、神の目には選ばれた、尊い生ける石です。・・つまずきの石、妨げの岩なのです」とあります。
キリストは人の目には役に立たない石として捨てられた石です。神の目には「尊い生ける石」であり、教会の礎の石です。この「石」の上に使徒や預言者が土台を造り、私たち信者が組み合わされて「キリストの体」「聖なる神殿」が建て上げられます。
大切なのは、キリストの福音は人間理性にとっては愚かであっても、キリスト以外のものを礎の石に選んではならないということです。礎で建物の位置、強度、規模が決まります。人は「自分の目に正しい」と見えること選び、その考えを押し通し、結局、砂の上に家を建ててしまいやすいのです。
第二に、使徒や預言者の教えを土台にするということです。キリストを礎にしても、世の賢そうな「人間の教え」を使って建てていくなら、歪んだ家になります。常に聖書という設計図を確認しつつ、建てていかなければなりません。
第三に、建て物の「材料」である私たちは、組み合わされやすいように整えられなければなりません。私たちはいわば大きさも形も材質も異なる「れんが」であり、隣の「れんが」とうまく組み合わされるように削られ、調整される必要があります。そのためには、自分の利益を求めず、自己実現、自己顕示欲を捨てなければなりません。それは痛みが伴うことです。しかし、その痛みのゆえに麗しい神の住まいができ上がるのです。
私たちも世にあっては、「捨てられた石」のように扱われることがあります。しかし、キリストは「この世の取るに足らない者や見下されている者」「無に等しいもの」(Iコリ1:28)を生かして用いることを得意とされる「大工」です。私たちに必要なのは、御心のままに整えられる謙遜です。

