江戸時代中期の儒学者で幕府の政治顧問であった新井白石(1657-1725) は、密入国しようとして捕縛されたイタリア宣教師シドチ(ヨワン・バッティスタ・シローテ)を尋問しています。その時のことを「二人の言を聞くに似たり」と『西洋紀聞』に書き残しています。その「二人」のうちの一人とは、人文科学上の深い知識と世界に関する広い情報をもつ「賢者シドチ」、別の一人はキリストの復活を信じる「愚かなシドチ」です。白石は、その賢者と愚者が同じ人間であることに驚いています。しかも、シドチが命がけで海路はるばる日本に来たのは、人文科学の知識ではなく、キリストの復活を伝えるためでした。つまりシドチにとっては、「愚かなシドチ」こそが真の自分なのです。
もちろん鎖国・キリシタン禁制の時代ですから、白石はシドチの人文科学の知識や情報を珍重しても、キリストは受け入れませんでした。西洋文明は摂取してもキリスト教は排除するという日本の伝統は、白石あたりから始まったのかもしれません。
人は理性に愚かなものは切り捨てますが、理性に賢く映るものが人間を幸福にするわけではありません。私たちは今、300年前のシドチよりもはるかに多くの科学知識と世界の情報を手にしています。そして今も、キリストの十字架と復活は愚かです。それでも私たちはシドチとともに、キリストの十字架の救いの力と復活を信じます。それは、科学は私たちを救わないが、キリストは真の命と豊かな人生を与えると知っているからです。
聖書に、「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」(マルコ12:10)とあります。私の「新しい人」としての第二の人生も、「賢い人たちが愚かだと見捨てたキリスト」を「礎の石」にして始まりました。私にも科学の知識とキリスト信仰が同居しています。しかし、キリストの十字架と復活が私の人生の礎石です。なぜなら、「十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力(だから)です」(Iコリント1:18)。2005年3月20日

