「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです」(エペソ3:7—9)。
パウロは自分を「一番小さな私」と言います。パウロは、碩学ガマリエルのもとで律法について厳しい教育を受けたパリサイ人で、知識、経験、熱心さにおいて、またローマ市民権を持つユダヤ人としても誇れることはたくさんありました。なのに、なぜ一番小さいというのでしょうか。それは、回心以前、教会を激しく迫害していたということにあります。また、知識、経験、熱心さや身分を、人間の大きさ小ささの基準にしていないからです。むしろ、それらを「ちりあくた」(ピリピ3:8)と呼んでいます。
神を認めず、神に反逆した生き方をしているなら、この世で何を所有していようが最も小さい者、哀れな者なのです。それが神の国の基準です。私たちが「国籍は天にあり」と誇るなら(ピリピ3:20)、神の国の基準で生きるべきなのです。
さて、そんなパウロが、神の国の福音に仕える者に選ばれるという恵みにあずかりました。その神の恵みと選びこそがパウロの誇りです。それ以外に誇りがないこと、それがパウロを謙虚にさせます。恵みを知ったからこそ、「一番小さな私」と言えるのです。
パウロは「神の恵みを無にはしません」(ガラテヤ2:21)と決意しています。その恵みによって「奥義の実現」を明かにするという使命を受けました。それゆえ、キリストの福音を異邦人に広げることにいのちを捧げているのです。それは、アブラハムの子孫として、世界の祝福の源となるという役割を果たすことになります。
私たちは、恵みによって神の国に入れられました。この恵みによって「一番小さな私」という自覚が生まれ、その謙虚さがキリストの恵みを無にしない生き方に導きます。恵みを無にしない生き方とは、人生を余すところなく主に捧げることです。

