「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです」(エペソ3:13)。
パウロは獄中です。獄中でも主イエスがともにおられるなら、そこは神の国です。それゆえパウロには恐れがありません。むしろ、獄中からエペソの信徒たちを励まします。苦難の中にいる私のことで「落胆するな」と。パウロが受けている苦しみは異邦人に福音をもたらすためであり、それは異邦人の栄光となるのだ、というのです(「光栄」はギリシア語では「栄光」と同じ語です)。
パウロには、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(Ⅱコリント 4:17)という信仰があります。今、獄中にいることは「軽い患難」であり、それが異邦人に「重い永遠の栄光」をもたらすと確信しています。しかも、パウロは今の「軽い患難」が「重い永遠の栄光」になることを抽象的に語っているのではなく、実際にその真実を自分の姿で見せようとしているのです。
「私の苦しみはあなたがたの栄光」とは、単に信仰の表明ではなく、パウロが今、現に体験していることです。信仰とは語ること以上に、見せることです。パウロは苦難の中で具体的に自分の信仰を見せて、信徒を励ましているのです。ヤコブは「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます」(2:18)と語りました。これがヘブライズムの信仰の姿です。その意味で、パウロはまさにヘブライズムの信仰者です。頭の中で説教を作って、講壇から言葉だけで信仰を語って終わるヘレニズムの教師でありません。
しかし今は、講壇から信仰を語るスタイルが中心になっています。「獄中」から「私の苦しみはあなたの栄光です」と、自分の信仰を見せるような伝道者は減りました。むしろ今後は、ネット上での仮想現実のような説教が主流になっていくのかもしれません。そうなれば、信仰自体が仮想現実になっていくことでしょう。 私も忸怩たる思いがあります。

