エペソ書㊲人知を越えた愛をどうして知れるか

エペソ3章17b~19a節「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えた愛を知ることができますように」。 

キリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」を理解する力はどこから来るのでしょうか。その愛が人知をはるか越えているのなら、どうしてその愛を知ることができるのでしょうか。 それは、私たちのうちに住まわれるキリストによって、です。では、どうしたらキリストは私たちのうちに住まわれるのでしょうか。信仰によってです(17a)。 

キリストを信じることから始め、キリストに進み、キリストに至るのです。キリストの「人知を越えた愛」は、キリストの「人知を越えた愛」を信じ、それを体験していくことで、その「広さ、長さ、高さ、深さ」が理解できるようになります。論理が循環していると思われるかもしれません。しかし、これしかないのです。 

パウロの時代、ギリシア哲学がローマ帝国の世界を席巻していました。その哲学における「真の知識」とは、人間理性によって認識することでした。つまり「愛とは何か」を頭で理解し、心理的にも納得すれば、愛を知ったことになるわけです。しかし、愛の広さ、長さ、高さ、深さを人間の理屈で説明できても、「人知」のうちにとどまったままです。 

一方、パウロにとっては、「真の知識」とは「新しい人」を着せられることで得られるものです(コロサイ3:10)。つまり、キリストの愛は、キリストを着せられて(ローマ13:14)、理解されるのです。それゆえ、人知をはるかに超えているのです。 箴言27章17節に「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる」とあります。この言葉を借りれば、キリストの愛は、キリストの愛によって研がれる、ということです。ざっくばらんに言えばこうです。「キリストの愛は人間の理屈を越えている。とにかくキリストの愛を信じて、礼拝し、祈り、その愛に倣って行動せよ。そうすればわかるようになる」。 

私は理屈っぽいと言えども、初めて自転車に乗る際、なぜ二輪なのに倒れないで、バランスが取れて前へ進めるのか、その理屈を理解してから、ペダルをこぎ始めたわけではありません。倒れないで乗れようになると信じて始めました。なぜか。実際に人々が自転車に乗っていたからです。何度も練習し、何度も倒れて、乗れるようになりました。今でも理屈を調べずに乗っています。知らなくても乗れています。 

キリストの愛もまたそうである、と信じます。

おすすめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です