エペソ3章20、21節「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン」。
パウロは、自分の願いや思いをはるかに越える主の恵みを幾度となく、実際に体験してきました。それは内住される聖霊の力であることも知っています。神の力と知恵は無限です。それを知り体験しているがゆえに、喜びがあふれ出し、神の栄光が永遠にあるようにと賛美したくなるのです。パウロの信仰、言葉、賛美にはリアリティが感じられます。
しかし、今日、そのリアリティが失われつつあると感じます。以下は、忸怩たる思いで私が語ることです。牧師たちは書斎(PC画面上)で説教を作ることに時間を注ぎ、それを講壇から巧みに語ることを大切にします。うまく語って信徒から評価されれば満足し、うまく語れなければ落ち込みます。しかし、語った通りの信仰を実践していなくても、そんなに落ち込みはしません。説教者は日々の暮らしの中で、自分の信仰を見せることには重きを置かなくなっているのです。聴衆のほうも、講壇やネットの説教だけで牧師を評価するようになっています。両者の生の出会いや語り合いがなく、神の国のリアリティが希薄になってきているのです。
特にコロナ禍を2年以上過ごし、教会までもがインターネット上での仮想現実(Virtual Realityバーチャル・リアリティー)になるのではないか。そんな、いやな予感がしています。クリスチャンがネット上での説教や神学論議や信仰談話の消費者になり、空中の楼閣のような信仰を築き始めているのではないか。多くの知識を自分のネット上のBoxに集めてはいるが、現実生活とはかけ離れたものになってはいないか。さらに言えば、教会に体を運んで礼拝するよりは、自宅でインターネット礼拝する方が楽で便利になってきているのではないか、と。
生きた礼拝、神の国の祝福を取り戻すのは、「私たちのうちに働く力によって」、聖霊の力によってです。コロナ禍の間は仕方がない、パンデミックが終わったら・・・ではなく、今、「全身で、とこしえに、主に栄光あれ、と叫ぶ」信仰で共に集まり、主日を待ち望みたいと思います。

