エペソ4章1-3節「ですから、主の囚人である私は、あなたがたに勧めます。招かれたあなたがたは、その招きにふさわしく歩み、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて霊による一致を保つよう熱心に努めなさい」。(共同訳)
パウロはキリストに仕えるがゆえに文字通り投獄されていました。3章1節では、それを「キリストの囚人(the prisoner of Christ)」と呼んでいます。一方ここでは、同じ囚人でも「主にある囚人(the prisoner in Lord)と言っています。主に捕らえられて、主の奴隷であるという意味です。キリストにある囚人は、キリストに縛られていますが、キリスト以外のものからは自由です。つまり、身は牢獄にあっても自由なのです。
私たちは牢獄ではなく、主に招かれて神の国にいます。主の奴隷として、主以外のすべてのものから自由です。この恵みにあずかったのは、品性を磨き、賜物を発揮し、務めを果たすためです。
まず謙遜。どうすれば謙遜になれるか。自分のありのままを正しく見ることができれば、自ずからへりくだるしかなくなります。高慢になるのは、自分を見失ったときです。すべての良きものは主から来たことを忘れ、自分が生み出したと思うようになれば、高ぶります。高慢は傍(ハタ)から見れば惨めです。そもそも囚人は威張りません。
次いで柔和。これは私には特に至難です。生まれつきの気性のせいだ、と弁解したくなります。ある程度は意識的に柔和を保てますが、何かあると瞬時に崩れます。しかし、私たちの「古い人」は死んで新しく生まれたのです。「新しい人」はキリストのご性質を受けています。そう信じ「自分を捨て」主に倣う訓練をします。激高も傍(ハタ)から見れば惨めです。柔和な人が地を受け継ぐのです。次に寛容。現代ヒューマニズムの寛容のように「多様性」を御旗に掲げて、善悪を問わずに何でも受け入れることではありません。罪は罪、悪は悪として、譲歩しません。寛容とは、主が私たちを憐れまれたように憐れむことです。人が主の憐れみを知るように、私たちの憐れみを示すのです。
愛と忍耐。愛は人をキリストに似た者に建て上げます。愛や忍耐は甘やかしではありません。愛はタフ(強靭)なのです。不正や悪に譲歩せず、正しさと両立させる道を模索します。そのために謙遜と柔和、寛容が求められるのです。
互いに忍耐して一致を保ちなさいとは、教会内のことです。教会外で平和を保てても、それは真の平和ではなく、妥協の産物です。信仰や価値観を譲歩して作り上げる平和は偽物です。同じ主を信じる神の家族から真の平和は始まります。

