人間による判定には権威がない

人気下降の大相撲ですが、この間、テレビ中継でこんな場面がありました。土俵上の行司の軍配(判定)に対し、土俵下の5人の勝負審判が「物言い」(異議)をつけ、彼らで協議して行司判定をひっくり返したのです。行司はその協議には加われませんし、自分の判定が覆されても抗議できません。明らかに間違いでも、5人が協議して出した判定が絶対です。

1958年、自分の判定が覆された行司の19代式守伊之助が、土俵を叩いて自分の軍配の正当性を主張したことがありました。それが「ヒゲの伊之助涙の抗議」として角界の歴史に残りました。それほど、行司判定には権威がないのです。 

このように、大相撲の勝負は勝負審判たちの話し合いで決まります。行司の役目は勝負審判たちが納得する軍配を上げることです。納得できなければ話し合い、多数決で決着です。欧米発祥のサッカーや野球の審判、アンパイアの判定が絶対であるのとは対照的です。それは聖書の神観と日本の神観との違いを表しているように思えます。 

日本では人間が神のあり方を決めます。神が人間の思いと異なることをすれば「物言い」をつけ、人間で話し合って「神はこうあるべきだ」という結論を出します。真実かどうかより、人間の気持ちが納得できるかどうかが大切なのです。はっきり言えば、日本人の神々は日本人が作り、日本人の総意で守ってきた神であり、絶対的権威はありません。 

しかし、聖書の神は天地と人間の創造者であり、絶対的権威をもち、愛と義に基づいて、すべてを公正に判定されます。神は人の思惑や判定を超えて、愛のわざをなさいます。ですから聖書はこう教えます。「私にとっては・・・およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分を裁くことさえしません」(Iコリ4:3)。すべては神の基準に合わせて判断し、神の判定に委ねるのです。(2005年10月16日)

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