教会に通う途中のT字路に、まったく無視されてきたストップサインがあります。地面に大きく「止まれ」と書かれ、赤の標識も立てられていて、絶対に見落とされるはずがないのに、ほとんどの車が徐行さえせずに通って行きます。あれほど堂々と無視され続けていると、「止まれ」の標識のほうが間違いなんだろうか、と思われてきます。おそらく、そう思いこむようになったドライバーが、次々と「標識無視」に加わっていくのでしょう。
私はそのT字路で、標識を無視して突っ込んでくる車と対い合うことになります。彼らが無視するとわかっているので、こちらが譲歩せざるを得ません。クラクションを鳴らして知らせても、ドライバーは「???」という顔をするか、にらみます。
社会マナーやルール、良識や倫理道徳が一部の人々に公然と破られ、破ってても恥ずかしくなくなり、やがて破るのが当然となり、多くの人が破ることに参加し、ついには守るほうが間違っているというふうになっていく過程を、あのT字路の標識がまざまざと見せてくれています。
さて、再び「止まれ」の標識が守られるようになるには、二つのことがなされるほかありません。一つは、事故が起こり、犠牲者が出ることです。自分で痛い目に遭わなければ気づかないのが人間です。正しい人が巻き添えを食うのは腹立たしい限りです。もう一つは、そこに警察官が立って取り締まることです。無視したドライバーを捕まえて罰金を払わせるのです。
実は、最近は無視する車がめっきり減りました。いつかは起こるだろう事故が遂に起こったようです。以後、警察が隅に隠れて見張るようになりました。捕まる運転手も出ました。事故を起こして加害者になるより、早目に捕まった方がいいのです。
あなたは、人生行路で無視している「標識」がありませんか。破るのが普通になり、恥ずかしいとさえ感じなくなくなっていることはありませんか。事故を起こして痛い目に遭うまで無視し続けますか。それとも主なる神を恐れて、罰金を払う前に止めますか。今日、決めることを強くお勧めします。(2006年2月19日)

