7人殺害事件の容疑者の両親が、100人ほどの報道陣を前にして記者会見した。父親は深々と頭を下げて謝罪、母親は泣き崩れた。記者団から「事件を防げなかったのか」などの質問や、社会的責任を問う声が出た・・・・
こういう場面を見るたびに、ヨハネ8章の「姦淫の現場を捕らえられた女」を思い出す。律法学者やパリサイ人が女を取り囲んで、イエスに「律法では、こういう女は石打ちにせよとあるが、あなたはどうするか」と問うと、イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい」と答えられたという話である。結局、律法学者たちは、年長者から順に去って行った。自分の罪をよく知っていたからである。
7人の命を奪ったことは死に値する。しかし、犯人の両親に、どれだけの罪や社会的責任があるのか。それは何代先まで問われるのか。両親は犠牲者とその家族に対する謝罪の念と責任のためにメディアの前に自分をさらした。こうした人たちは明日からどうやって暮らしていくのだろうと、いつも思う。
私たちは、自分のことを省みれば、この両親に石は投げられないはずだ。メディアは、自分たちが正義を代表しているかのように事件を論じる。誰かが、記者会見の場で、「罪のない者が最初に質問しなさい」と言ったら、どうなるだろうか。おそらく「そういう問題ではない」と罵声が返ってくるだろう。実は、視聴者も、彼らが自分たちに代わって裁いてくれることを望んでいるのだ。その裁きの声に同調して、自分たちは正義の側にいると確認したいのだ。
当教会のある人が、「姦淫の現場を捕らえられた女」の話に関して、「日本人だったら、けっこう平気で石を投げつけると思いますよ。自分も同じことをしているとしているとわかっていても、それでも投げるんじゃないですか。テレビ、新聞、マスコミを見ていれば、そう感じますね。律法学者やパリサイ人のほうが、まだ立派ですよ」と言われたことがあるが、私も同感である。
自分も同じことをしていることをしていても、それを認めたがらない。そして、自分と同じ弱さを持った人を、血祭りに上げて、自分の身代わりとしている。
せめて「律法学者やパリサイ人」ほどの羞恥心は失わないでいたい。
(2008年6月15日)

