五木の子守唄の心

山本潤子が歌う「五木の子守唄」を聞きました。「おどまかんじんかんじん あん人たちゃよか衆(し)。よか衆ゃよか帯 よか着物(きもん)」(私は物もらい、あの人たちは裕福な人たち。良い帯を締めて良い服を着ている)。 

貧しい小作人の子供たちは、食い扶持を減らすため、金持ちの家に奉公に出されました。奉公といっても、食べさせてもらうだけで、給金は出ません。奴隷同然です。この歌の続きには、「おどんが打死だときゃ 誰が泣(に)ゃてくりゅか。裏の松山ゃ 蝉が鳴く」(私が死んでも、誰が泣いてくれることか。ただ、裏の松山のせみが鳴く)とあります。あまりにもやるせなく哀れで悲しい歌です。 

しかし、この歌には、「よか衆」への恨みも呪いもないのです。最後のほうではこう歌われます。「おどんが死んだなら 道端(みちばち)ゃいけろ 人の通るごち 花あげる」(私が死んだら道端に葬ってくれ。通る人ごとに花を上げたいから)。恨みどころか、人を喜ばせたいという気持ちがあります。この健気さに、胸が熱くなります。 

お隣りの韓国は四年に一度、外国の侵略を受けるという辛酸を嘗めた国です。韓国人には、そんな歴史から生まれた「恨(ハン)」という民族的感情があります。恨という漢字で表しても、「うらみ」というのではないそうです。悲惨な歴史を否応なく負わされた民族の悲しみ、苦しみ、屈辱、やるせなさが心の中にたまって醸成された、鬱屈とした感情だそうです。外国人には理解できないと聞きました。しかし、20世紀後半、そんな韓国に、主の恵みと慈しみが豊かに注がれました。以来、韓国の諸教会の中から「ハン」を越えて、敵国であった日本に神の国の祝福をもたらそうとするクリスチャンが出てきました。私はその慈しみを受けた一人です。 

だれでも、大なり小なり、親から受け継いだ性格や能力への劣等感、人から受けた傷などにうずくものを持っています。しかし、主の十字架は、呪いを祝福に変えます。鬱屈とした感情から解放します。私たちは、自分のあらゆる領域に十字架を立てて、恵みで満たされ、主の祝福を広げる役割を果たしたいと思います。(2008年8月10日)

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