聖書には、神様が扱いやすい人と扱いにくい人が登場する。最初の人アダムは扱いにくかった。「善悪の木の実」を妻にもらって、あっさり食べる、食べたら隠れる、主に責められたら妻に責任転嫁する。
アダムの長男カインもそうだ。主が弟アベルを高く評価されたらすぐ嫉妬する、それを警告されたら心を頑なにする、弟殺しの罪を指摘されたらすねる、憐れみを注がれても「どうせ私は・・・」と「主の前から去って」(創世記4・16)しまう。本当に扱いにくい男だった。
主に選ばれたアブラハムの孫ヤコブも我が強かった。神の使いと格闘して勝ったほどだ。そのヤコブの子孫イスラエルも、出エジプトの際は不平不満ばかり言って神の人モーセを苦しめた。預言者の中にも扱いにくいのがいた。ヨナだ。主が遣わされたニネベとは反対の方向に行く。自分が宣教してニネベの町が救われるが、主の憐れみ深さが気に食わぬと言って、「死んだ方がましだ」と怒る。主のほうが彼のご機嫌取りをなさったほどだ。
イスラエルの王たちにも、サウルを初め、主に逆らった者が多かった。あまりにも扱いにくく、主もついには彼らの王国を滅ぼすほかなかった。それが扱いにくい者への報いだ。
むろん主は、扱いやすい人を喜ばれる。アブサラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデ、主の預言者らがそうだ。ヨセフは、どんな仕打ちを受けても卑屈にならず、用いられても高慢にはならなかった。モーセは、最初、彼自身が扱いにくい人物だったが、扱いにくいイスラエルの民を忍耐して導き、謙遜な者として主に絶賛された。ダビデも主に従い通し、罪を犯しても主の前に即座に悔い改めた。すぐに悔い改める者は実に扱いやすい。
新約聖書ではやはりパウロか。彼も若い時は自ら「罪人の頭である」というほど扱いにくかったが、主と出会ってからは変わった。どんな試練に遭わされても、主を恨んだり卑屈なったりするどころか、「患難さえも喜んでいる」(ローマ5・2)と言った。主にとって扱いやすい使徒になった。
主に扱われやすい人間になる、それが主に最も用いられやすく、最も祝福される道だ。 (2009年12月20日)

