近江商人のこんな話が残されています。
二人の呉服屋が、重い荷を降ろして峠で一休みをしました。
「この峠がもう少し低かったら、いいんだけどねぇ」と、一人が弱音を吐きました。
「あ、そうですか。私は、この峠がもっと高かったらいいと思いますが。そしたら、意志が弱いというか、本気じゃない人は、商売に行かなくなるでしょ。私はどんなに苦労をしてでも、峠を越えます。そして、ひとりで儲けさせてもらいますよ。」
でも、これは仲間を蔑んでいるではなく、励ましているのだそうです。峠を越えなければ、反対側の町で商売することはできません。頑張って登っても、途中であきらめるなら、何の意味もありません。商売人として生きるためには、峠を越えるしかないのです。
幾多もの患難を通ったパウロがこう言っています。「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません」(1コリ 9:26)。
人生の「決勝点」がはっきりしている人は、山(患難)があるのは当然と考えます。もちろん、山道が険しければ一時休憩はします。でも道草は食いません。決勝点を目指し、山を越えて行きます。決勝点は「栄光の冠」(Iペテロ5:4)です。
人より先に着くことが目的ではありません。急ぐ人には「お先にどうぞ」と道を空けます。疲れた人を助けて、しばしとどまることもあります。でも、絶対に「決勝点」を忘れません。
すでにキリストによって開かれた道を行くのです。しかも、キリストが共に行ってくださいます。峠はその途上にある過ぎません。そして、すでに多くの人が通ったのです。
キリストが私たちを励まされます。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)。

