これから数回にわたり、「神の存在証明」について、お話をしていきます。
私は18歳のとき、神の存在を信じ、キリストを救い主として受け入れ、洗礼を受けました。
しかし、神の存在を信じることと、本当に神が存在することとは別問題です。当時の私は、神を必要としているがゆえに、神の存在を信じる決心をした、ということを自覚していました。虚無感に苦しんでいたので、その虚無から解放されるために、私は神が必要だったのです。神にはどうしても存在してもらわなければならなりませんでした。
それは、クリスチャンとしては実に不安定な信仰でした。意志と知性が一致していなかったからです。私は、神の存在を、意志だけでなく、知性でも確信したいと強く願っていいました。
それゆえ、私の二十代のテーマは、「神の存在証明」になりました。大学は哲学科に進み、そして、キリスト教弁証論を学ぶために米国の神学校にも入りました。神の霊による主観的な体験ではなく、知性の論理で神の存在を証明したい、そして人をも説得できるようになりたい、という一心でした。
神学校には3年在籍し、弁証論や組織神学を中途半端に学んで、中退しました。言い訳にすぎませんが、神の存在に知的確信が持てないがために、聖書そのものを学ぶことには熱が入らなかったのです(今は、卒業できなかったことより、聖書の知識を積み上げなかったことに悔いが残っています)。
帰国して、一旦、高校教師となりましたが、それでも30歳になるや否や、牧師としての人生をスタートさせました。神学校の卒業資格はありませんが、それでも按手礼を受けることはでき、今日まで牧師の働きを継続しています。
あれから36年の時が過ぎました。今、20代を振り返りながら、あらためて「神の存在証明」について論じてみたいという思いになりました。実は、22年前に『スッキリわかるキリスト教』という一般向け弁証論の本を出版し、神の存在証明を論じたことがあります。それは人間視点(ヘレニズム)だけの議論でしたが、今は、ヘブライズムの視点も加わりました。
その両方の視点を交えながら、お話ししていきたいと思います。

