長野県北佐久郡小諸町の「懐古園」を見学し、そこに校舎の残る「小諸
義塾」の創設者で牧師・教師の木村熊二が印象的だったので、紹介します。
1845年京都生まれ、江戸時代は幕府に仕え、明治期は勝海舟の下で活
動。後に森有礼(初代文部大臣)に随行して渡米し、キリスト教と出会い、
受洗。牧師になり、1882年派遣宣教師として日本に帰国します。
当時の日本の女子教育は、ミッションスクールによるものがおもでした
が、英語熱と西欧へのあこがれが原動力で、英語の学習は進んでも日本人の
女性としては準備ができないとして、生徒がストライキを起こすことさえあ
り、木村には良い教育には見えませんでした。それで、妻の鐙子とともに、
1885年「明治女学校」を設立。キリスト教精神を根底に置きながらも、ミ
ッションの援助は受けず、日本人の手で管理する学校としました。
多くの良い教師が集まり良き人材を育てましたが、創設の立役者、鐙子
がコレラで急死。続いて再婚相手の不貞問題に巻き込まれ、木村は校長の座
を降り後進に託します。
そして長野へ移住。1893年に小諸で私塾として「小諸義塾」を創設し、
青年教育に力を注ぎます(懐古園内に校舎が残る)。木村が洗礼をさずけ
た、詩人の島崎藤村が、教師として招かれました。キリスト教を土台とし、
旧制学校とは一線を画した教育は、13年続きました。しかし、保守的な地
元社会には、キリスト教主義教育への警戒、人格形成を重視した独特な教育
への不信があったようで、そこに財政難も加わり、閉校しました。
木村が創設した学校は2つとも、短期間で終わり、もう残っていませ
ん。ミッション教育の流れに逆らって、日本人としてのキリスト教教育をめ
ざしたことや、保守的な土壌で活動をしたことが裏目に出たのかもしれませ
ん。しかし、激動の時代に、信じる形のキリスト教教育を追求しようとした
チャレンジ精神、行動力、人材を集め輩出した求心力には、目を見張るもの
があります。懐古園には、島崎藤村の字で、「われらの父木村熊二先生と旧
小諸義塾の記念に」と記された木村の肖像のレリーフが残っています。(2025年11月2日週報)
