創世記22章の記録です。
主は百歳を過ぎた老人アブラハムに、「愛する独り子イサクをモリヤの山で全焼のいけにえとして捧げよ」と命じられます。翌朝早く、アブラハムは老妻サラに何も告げず、イサクを連れ、モリヤの山に向かって出かけます。
なぜアブラハムはサラに黙っていたのか。キルケゴールは、アブラハムには語ることができないからだ、と言います。語っても人には理解できないとき、言葉を尽くして語ったとしても、語ったことにはならない。語っても理解されないなら語らない、黙るほかないのである(『おそれとおののき』)。
アブラハムが取った行動は、神とアブラハムの間でしか了解されていないことです。だから人には語れません。
絶対者なる神に従うとき、人には理解してもらえないことをせざるを得ないことが、まれにあります。そんなときには、誰にも語れないのです。
キルケゴールは、我が子を捧げたアブラハムの行為は、唯一無二の奇蹟的な行為であると言います。アブラハム以外、誰にも許されていない行為です。キルケゴール自身も、アブラハムのような行為をする信仰と勇気は持ってはいない、と告白しています。だからこそ、アブラハムは偉大であり、信仰の父なのです。
キルケゴールはさらに、「信仰とは、人のうちにある最高の情熱である」とも語ります。クリスチャンは、同時代の人々には到底理解してはもらえないほどの、情熱に満ちた信仰に到達することがあるのです。
さて、アブラハムに独り子イサクを捧げよと命じられた主は、およそ二千年後、同じモリヤの山のあるエルサレムで、ご自身の愛する独り子イエスを十字架に付けられました。アブラハムはイサクを刀で屠ろうとした直前、主に止められ、イサクを生きたまま取り戻しました。しかし、父なる神はイエスを実際に十字架に付け、三日目に復活させて取り戻されました。 主は、ご自分がなさることをアブラハムにもさせられたのです。アブラハムは黙して従いました。実に、二千年も黙していたことになります。(2026年1月18日週報)
