「神はキリストにおいて、天にあるあらゆる霊的祝福をもって祝福してくださいました」(エペソ1:3)。
「天にあるあらゆる霊的祝福」で祝福されているのであれば、私たちの心は感謝と喜びにあふれているはずです。なのに、なぜ不平や空虚感が生じるのでしょうか。「あらゆる霊的祝福」は「キリストにおいて」与えられています。キリストを中心とした生活を確立していなければ、その祝福はまだらになるか、薄まっていきます。そこに不満や空虚が漂い出すのです。
世の事を中心にしていると、世の中に振り回され、その遠心力で霊的祝福は飛び散っていきます。自分を人と比較することも祝福を妨げます。高慢になるか卑屈になるか、自己満足に陥るか、人を妬むかのいずれかです。それでは、霊的祝福は堰(セ)き止められます。
また、祝福を受けても、自分の所にとどめておくだけなら、やがて枯渇します。金持ちが気前よく投資するようになれば、世の中にお金が回り始めるように、神から受けた祝福で人を祝福するようになれば、祝福はますます増え広がるのです。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」(ルカ 6:38)という原理が働きます。 また、感謝する心が鈍っていることも、祝福の流れを淀ませます。祝福を当然のように考え感謝することがなければ、「持たない者は持っているものまで取り上げられてしまう」という原理が働きます(同12b)。まず、あって当然と思っていることへの感謝から始めてみませんか。
キリストの恵みは、へりくだる人に勢いよく流れます。へりくだる人は、本来はキリストの祝福を受けるに値しない者であることを知っており、感謝にあふれます。感謝する人は、人を祝福することが喜びになります。祝福する者は祝福されます。祝福の循環が起こります。これが神の国です。
しかし、へりくだりを失った人は、感謝することを知らず、どんな祝福をも当然と考え、新たな欲望に走らされ、いつまでも心が満たされることはありません。こうした人は、あらゆる霊的祝福にあふれた神の国でも、満ち足りることはないでしょう。その祝福でさえも当然と思うようになるからです。それゆえ、へりくだりを忘れた人は、神の国からどんどん遠ざかっていきます。不満の循環です。
写真は、祝福の山ゲリジム山から、呪いの山エバル山を北に臨む場所です。


