罪に殺されるな

「罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺した」(ローマ7:11)

人はだれしも、良い人、優しい人、謙虚な人になりたい、良い妻、良い夫、良い親になりたいと願います。キリストが愛されたように人を愛し、人を赦したい、と思います。なのに、それがいつのまにか重荷や疲れになったりするのです。なぜでしょうか。

それは「したい」という「喜びの自発的行為」が「しなければならない」という「義務の戒め」になるからです。そうなったら「罪」のお出ましです。罪は戒めをうまく利用して、「お前は・・・しなければならない」と命令し、「しかし、お前にはできない」と責め、「だからお前は惨めな人間だ」という烙印を押すのです。そうなると、自己嫌悪に陥るか、偽善者になるか、「何が悪い」と開き直るかのいずれかです。こうして、冒頭の言葉のとおり、人は「戒めによって殺される」ことになります。

まだ自分を苦しめるだけならいいのですが、他人まで「しなければならない」と責め立てて裁くようになります。そうなれば、人と人の間に「死=断絶」が入ります。身近な人との関係が崩れ、一層不幸になります。

良妻賢母の女性を妻にしていた男性の実話です。その愛する妻が突然亡くなりました。夫は悲嘆に暮れていましたが、しばらくすると不思議に食欲が出てきて太り始めました。寂しく悲しいのになぜだろう・・・と考えて、思い至ったのはこうでした。「妻にふさわしい夫でなければならないと無理をしてきたが、妻の死でその無理から解放された」。自分から妻に縛られる生き方をして、自分で勝手に無理をしていたのです。

クリスチャン生活にも同じことが起こります。私たちと共におられるキリストは聖なる方、完全な方ですが、私たちを戒めで縛ることはなさいません。私たちの罪の身代わりになって罪の縛りから解してくださった方が、私たちに手かせ足かせをはめられるはずがありません。むしろ、罪から自由になった私たちを見て喜んでおられます。

キリストの恵みを喜び感謝しているなら、罪が「機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺す」という余地が生じるはずはありません。

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