日本のような小さな国の繁栄は、そう長く続くものではありません。ジャパン・アズ・NO.1といわれたのはもう昔のこと(2021年、そんな時代があったことさえ知らない人が増えました)。今や、政治経済は三流、教育・大衆文化は四流などと言われます。老人から赤ちゃんまで一人400万円の借金(現在は一人一千万円)を負い、かつてのような贅沢な生活は許されなくなりました。
なのに、心も体も平和で豊かで便利で自由な生活に慣れ切ってしまいました。キリスト教会も、平和で豊かな時代に甘やかされて、生温い信仰になっていると思われます。で、問題は、かくもなまってしまった体と心をどうするかです。
忍耐が求められる時代が近づいていると思います。少なくともその覚悟はしておいたほうがいいでしょう。
今、私たちは礼拝で、Iコリント13章を斉唱します。その7節に「愛はすべてを我慢し・・・すべてを耐え忍びます」とありますが、私たちに真の愛があるかどうかが試されることになるでしょう。難しい時代にこそ、愛と忍耐の真価が問われるのです。
人は、将来の希望なしには、今の苦難に耐えられません。しかし、希望の光が少しでも見えているなら耐えていけます。これまで日本人は目に見えるものばかりに頼ってきました。しかし、これからは目に見えないところに希望を見い出していかなければなりません。
聖書は、目に見えないものにこそ希望があると教えます。むしろ目に見える希望は希望ではありません。「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント4:18)。
見通しのきかない時代に、いかに希望の光を見い出して耐え、神の時を待てるか。これからはキリスト者が真価を発揮できる時代でもあります。
先に引いたIコリント13:7「愛はすべてを我慢し・・・すべてを耐え忍びます」の「我慢」と「忍耐」の間の・・・には、「すべてを信じ、すべてを期待し」が入ります。信じ期待することが我慢と忍耐を支え、そして、我慢と忍耐が希望を実現するのです。
(2004年3月14日)

