「それは後に来る世々において、この優れて豊かな恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした」(エペソ2:7)。
初代クリスチャンたちが受けた豊かな恵みを、そのまま後世の人々にも味わえるようにしたい。それが主なる神の願いでした。
パウロも、自分が受けた恵みがどれだけ大きいかを、後世に伝えたいと欲しました。クリスチャンを迫害していた者が劇的にキリストと出会って変えられた恵み、キリストに用いられた恵み、迫害の中や獄中で受けた恵み、多くの人々がキリストを受け入れていく恵み。自分のような者にさえもこれだけの恵みを注がれたのだから、だれもが同じ恵みにあずかれると言いたかったのです。
ところで、神が豊かな恵みを後世に示したいと願われたのは、「キリストの体」である教会を通してであって、教会に属さない個人のクリスチャンを通して、というのではありません。キリスト教は個人主義のように思われていますが、聖書は個人主義ではなく共同体中心です。
キリストは「教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」(エペソ 5:25)のです。「キリスト・イエスにおいて賜る慈愛において」とは、「キリストの体である教会において受ける恵み」のことでなくて何でしょう。個人は、基本的に教会を通して「優れて豊かな恵み」を受け取るのです。
教会とはつながることなく信仰と愛を全うした孤高のクリスチャンというのは、新約聖書の中には一人も出てきません。みな教会とのつながりの中で恵みを受け、生かされていくのです。パウロ自身もアンテオケ教会に属し、エルサレム教会とつながり、そして教会を建てていきました。
個人はいつかは地上から消え去っていきます。しかし、教会は連綿と続いていきます。パウロもペテロも今はいません。しかし、彼らが建てて仕えた教会はキリストの再臨の日まで継承されていきます。こうして教会を通して、神の豊かな恵みは後世に明らかに示されていくのです。キリスト栄光も教会を通して現わされ、後世に語り継がれます。
その役割を担うのは、私たち「キリスト体に属する無名のクリスチャン」です。それは私たちがキリストの恵みをそのまま受け取り、十分に味わうかどうかにかかっています。

