前回に続き、沖縄県読谷村にてやちむんの親方に聞いたお話、今度は水
について。
山から陶土にするために掘ってきた土は、そのまま使うのではなく、小
さなプールのようなところに 沈める。その場所を見せてもらったが、お風
呂のような四角い槽が何個か地面に、はめ込んである。土をそこに入れ、
「水簸(すいひ)」という作業が始まる。
長い木の板を使って、水と土をひたすら混ぜていると、木の根や葉っぱ
や小石といった不純物 がたくさん浮いてくる。それをポンプで水ごと吸い
上げて、ざるで濾してまた水を戻す。水簸の「簸」の「簸(ひ)る」とは、収
穫した穀物を箕(み)に入れ、煽りながらふるうことで、ゴミや籾殻などを
取り除 くこと。そのことから、水によって沈殿速度を利用して余分なもの
を除き、土を選り分けることを「水簸」と呼ぶようになったとのこと。
水簸を何度も繰り返していくと、最後は陶土に適した粒子の細かい土だ
けが底に溜まっていき、それを取り出して乾かし、器に用いる。不純物が陶
土に入っていると、器は割れてしまう。親方は、「これは土にとってのバプ
テスマ」だと言っていた。水に沈められ、空気やゴミなどが取り去られ、用
いられる。土が自分でそうすることはできない。
私たちはイエス様を救い主として信じた時、水のバプテスマを受ける。
水に沈められることで、古い人は葬られ、新しい人が誕生する。新しい人に
なっても、自分の力では自分の中に残っている 不純物を取り除くことので
きない私たちは、日々、いのちの水である聖書のことばに浸され続けるこ
とが不可欠だ。完全にみことばの中に沈むなら、不必要なものが上に浮い
て、捨てることができる。
そして底に沈んでいるのが陶器師である神様に用いられる部分だ。試練
や逆境に会う時、じた ばたと抗うのでなく、主のことばに満たされ信頼し
て、主に委ねていたい。陶器師である主の御手に よって造られ用いられる
器となるために。(2026年7月12日週報)
