エペソ書㉟「家族として一つであることを忘れていないか」

「このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、ひざをかがめて祈ります」(エペソ3:14、15共同訳) 

パウロは、主なる神を父とする人々を「家族」と呼んでいます。ユダヤ人も異邦人もキリストによってつながり、一つにされた「神の家族」のことです。パウロはその家族の一人として、家族のために「内なる人を強めてください」と祈るのです(16)。 

私たちは、全世界のクリスチャンが家族であるということを忘れていないでしょうか。自分が苦しみの中にあるからといって、自己中心になり、教会という家族のために祈ることをおろそかにしていないでしょうか。パウロは獄中にあって家族のために祈ります。 

ヘレニズム(西欧)化したクリスチャンは個人主義の傾向を強め、家族という意識を失いつつあります。しかし、世界の趨勢がどうであろうと、教会は一つの家族です。 

また、パウロは「膝をかがめて祈ります」。ただの心の姿勢ではありません。心と体を一つにして、切なる祈りを体で表現するのです。 

ヘレニズム(プラトンの二元論)の影響下にある西欧キリスト教は、心と体に分け、心を大切にします。心、あるいは脳だけが人格であるかのように扱います。「形よりも心。心があればいい」と言ったりもします。そして、ときには体に関することを罪のように扱います。 

しかし、ユダヤ人(ヘブライズム)は心と体を分けません。一つです。心だけが人格なのではなく、心と体が一つの人格なのです。心を体で表現するというのも正しくありません。心と体はもともと一つなのですから。それゆえパウロは自ずから膝をかがめて切に祈るのです。主イエスもゲッセマネの園でひざまずいて苦闘の祈りをなさいました。 

私たちは「一つである」ことを忘れてはいないでしょうか。私たちはヘレニズムの思想が支配する世界、いわば「獄中」にいます。その中にあって、ヘブライズムの家族観、心と体は一つであることを取り戻さないと、世の潮流に呑み込まれていきます。

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