水があればどこにでも住める

 佐久の地域のライフラインは、千曲川とその支流でした。初期の集落は千曲川沿いに形成されます。旧石器時代からの集落跡である香坂山(こうさかやま)遺跡は香坂川の源流の近くで、2025年には国指定遺跡となりました。川端ハウスの近くの()河田(かわだ)大塚(おおつか)古墳も、千曲川のほとりにありますね。

 川は生活用水のほか、遡上するサケや、水を飲みに来た動物を得る場でした。さらに稲作が始まると、集落はますます水とは切り離せなくなります。

 しかし、弥生時代の中途以降、遺跡は千曲川を離れた場所でも散在するようになりました。なぜか。このころ大陸のほうから灌漑の技術が伝来し、川の水を遠くまで引くことができるようになったからです。平安時代には、千曲川を水源とする野沢用水、臼田用水、城下用水、平賀用水の4つが存在し、取水に苦労しながらも佐久地域は稲作地帯へと発展していきました。

 そして江戸時代初期、武田氏に仕えた武士の子孫、上野(こうずけ)の国の市川五郎(いちかわごろ)兵衛(べえ)(さね)(ちか)が治水の働きをします。五郎兵衛は武田氏滅亡後、士官の誘いを断り、「志すでに武に非ず、殖産興業にあり」として、徳川家康から新田開発の朱印状を得、私財を投じて開拓しました。1626年から5年の歳月をかけて、不毛の原野「矢島原」に約20kmの用水路を完成させます。五郎兵衛用水です。この水を引いて、佐久のブランド米「五郎兵衛米」が作られます。

 このように、有名、無名の人々の努力により、佐久地域は豊かな穀倉となり、西は上方(かみかた)(関西)、東は東国(とうごく)(関東)まで米を輸出する土地となりました。  水があれば、どこにでも住むことができます。そればかりではなく、祝福を周囲に流していくことができます。聖書では、「生ける水」とは聖霊のことを指します(ヨハネ4章など)。昔の佐久の人々が、水を引いて住む場所を拡大し、豊かな田園を切り開いていったように、私たちに与えられているのも、知恵と力を用いて、聖霊の通り道を用意していくことです。新会堂での活動が、生ける水を流す場所として用いられますように。(2026年4月12日週報)

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