一緒にテーブルで食事やお茶をし、語り合い、交わりを深めることを、
テーブル・フェローシップ(食卓の交わり)といいます。主イエスは、神の国の喜びをテーブル・フェローシップとして描いておられます。
実際、弟子や人々と交わる場として、たびたび食事の席を用いられまし
た。ベタニヤでの食事(ヨハネ12章)、取税人や罪人を招き入れての食事(マタイ9章)、エマオでの食事(ルカ24章)など、まるでホームドラマかのように食卓の場面が多いのです。
取税人や罪人と平気で一緒に食卓に着かれるので、パリサイ人たちに非
難されてもいます。一緒に食卓に着くとは、仲間であることを意味していたからです。でも、パリサイ人から食事に招かれても断らず、食事を共にしてもおられます。
そんな会食があまりにも頻繁だったのでしょうか、「見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)と蔑まれることもありました。
重要な出来事も食卓でなされています。ナルドの香油を注がれた(メシ
アとは油注がれた者)のは、シモンの家で食事中でした(マルコ14章)。新しい契約を結ばれたのは、最後の晩餐の席でした。イエスを裏切ったペテロらとの和解の席は、ガリラヤ湖畔の朝食でした(ヨハネ21章)。
イエスは私たちと食事を共にすることを願っておられます。「見よ。わたしは、戸の外に立って叩く。誰でも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼の所に入って、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする」(黙示3:20)と。
そして、神の国の完成の日には、「多くの人が東からも西からも来て、天の御国(神の国)でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます」(マタイ8:11)。私たちが花婿なるキリストに迎え入れられる場面も、披露宴の食事の席にたとえられています(マタイ22章)。神の国の味わいは、まさに食事なのです。
豊かな食事でもささやかな食事でも、またお茶を飲むのでも、それは主
イエスと向かい合う「神の国のテーブル・フェローシップ」だと意識して味わいませんか。食事の意味が違ってきます。(2026年8月23日週報)
